10.終戦

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10.終戦

(林)

終戦が知らされた玉音放送※のあったその昼には、みんな隊内に帰っていました。


その日は回天の訓練で事故があって、その引き上げに私は行きました。

それがちょうど昼でした。だから、その時間、事故のために海上での訓練はしていなかったのです。

引き上げ作業をしていた一部以外は、みんな基地にいたはずです。


結局、引き上げは3時か4時頃になったと思います。

※玉音放送とは

一般的には、1945年(昭和20年)8月15日正午にラジオ放送された、昭和天皇による「大東亜戦争終結ノ詔書」(だいとうあせんそうしゅうけつのしょうしょ/通称:「終戦の詔書」)の音読放送のことをいいます。

(山本)

その終戦の前日に、訓練から帰ってくると司令と特攻長が何か浮かない顔をしていました。

後でどうも日本が負けたらしいと聞きました。

そして、次の日おそらく何処かに集められて終戦について話があったのだと思います。


終戦のその夜でしたか

「終戦は、上の方の悪い連中のまやかしだと、ついては呉の上空に行ってビラをまいて戦争を続けるように言おう」

ということをある士官が言い出して。


その士官が予備学生の所に来て、「お前たちは文章が上手いから、文を書け」と言ってきたらしい。

それは断ったという話です。


その次の日には、その士官は飛行機に乗って、呉でビラをまいたようです。そしたら呉の方から司令がきて「あれは天皇の命令だから、服従しなさい」と言ってきました。


(林)

私はそのビラをガリ版で刷っているところを見ました。

それでその士官は偵察機に一人乗って、短刀を持って出かけていきました。


私たちは、アメリカ軍が攻めてきたときのことを考えて、1度だけ匍匐(ほふく)前進まで訓練させられて、私はもううんざりしていました。

だから、仲の良かった七山兵曹を誘って、訓練をしないで、海岸でナマコをとって食べたのを覚えています。


そして、呉から偉いさんが来て鎮圧されて、その士官は解散の訓示をしました。

その時に「大事な訓練をすっぽかした大ばか者がいた」と私の方を睨まれたのを覚えています。七山さんはついこの前に亡くなりました。


(中川)

そう言えばその士官は復員の時、私たちに、「搭乗服を持って帰るな」と言われました。「それ持って帰って、アメリカに見つかったら殺されるぞ」と言っていました。


(山本)

「特攻隊員はみんな縛り首だ!」と言われましたね。

~戦争が本当に終わったんだ、と思ったとき、の心情を聞かせてください。~


(山本)

一つには、やっぱり先に死んだ人に申し訳ないという気持ち、もう一つは、心の底ではああ、これで生きられるかなという気持ちもありました。


しかし、「特攻隊員はアメリカ軍が来たら縛り首だ!」と言われたから、どうせ殺されるんじゃないかという気持ちもありました。


(林)

階級章もちぎって下士官帽も被らなかったですよ。


(山本)

私は家に日本刀を持って帰り、(当時、日本刀を持っていることは、将校であるということだった為)隠すようにと親父に言いましたが、警察が4、5回来て結局出してしまいました。


(中川)

終戦ということで説明があったときは、やっぱり茫然自失という感じになりました。

それと、そこが17歳10ヶ月の子供ですね。何も考えてないんです。

何日か後には、すぐに追い立てるようにして帰らされました。


終戦の15日、あるいは橋口さんが自決された時は何か考えたことでしょう。でも、その他は何も思っていなかったと思います。


(林)

確か基地では玉音放送が雑音で聞き取れなくて、わからんかったと言う話を聞きました。

戦局が混乱しているから、もっと頑張れという陛下の言葉ではないか、などと言っている人もいました。


それから、引き揚げ作業をしていて休憩している時に潜水艦が一隻入港してきたんですよ。


それが、手旗信号で、戦争がどうなったのかを聞いてきたのだと思います。

私は手旗信号をやりますから、返信するように命ぜられて、手旗を振りました。

まずは誰から誰への信号かを振ります。

「フヨカ」」「フヨカ」と振れと、命令されて振りました。

それが何の意味かわからなくて聞くと、「副長から艦長へという意味だ!そんなことも知らないのか?」と怒鳴られたのを憶えています。


もう一つショックなことは終戦が近かった日、空襲警報が鳴ったので、みんな阿多田の山の大きな防空壕に避難して私も行って入り口の所にいたときのことです。


外を見ていたら、たまたま目の前を広島湾の方から、敵機がシューっと現れて、煙を引いていました。

それが、徳山の奥の方に、とうとう着水した。

そして、双眼鏡で見たら3人くらいが泳いでいました。だから、高速艇で捕まえようとするけど、空には敵の戦闘機がいて、誰も手を出せない。結局、双発の飛行艇が着水して敵が救助していきました。


これを見たときに、100%日本は負けると、思いました。日本のいわば箱庭で、日本海軍の港がたくさんあるところです。なのに、敵の兵隊が泳いでいるのに、何もできないんですから。

呉基地での記念写真

8月15日平生港帰港後、呉基地での記念写真。潜水艦の上で撮影。
前方に見えるのは、回天の台座です。

阿多田交流館に展示されている軍服や帽子など。

阿多田交流館に展示されている軍服や帽子など。

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